『祖谷物語―おくのひと』

『祖谷物語―おくのひと』を観るには、いささか体力が必要であった。
その上映時間の長さもあったが、それ以上に、言葉なき映像がつなぐ壮大な映像の叙景を、拙い私の感覚の検知器が読み取るためには、多少の時間差も要する。理解しようとしても疲れ、理解しようとしなければ、意味は分からないが、感覚は分かる。そういう映画であった。
 この国に残る奇跡のような自然美の風景は、実は限られた面積の中の小さな幻のような地であったとしても、何故か、多くの外国人が、日本のこの場所を選択する。この地の美しさに惹かれた多くの外国人の代表として著名なアレックス・カー氏らしき人物像のキャストも登場する。しかし描かれる人物像は、その地にとって敵か見方か曖昧な立場として答えのない役割を担っている。
 幻想的な風景は、逆に物語の生活感とともに進行していくが、ヒロインがその地を捨て、東京に出た後の光景は映画の色を一変する。しかし、祖谷の風景とは対比した都会のどぶ川の風景を借りて映し出されたヒロインの憂いは、故郷の地とつながる琴線でもある。
 疲れたヒロインが、その地に戻った後は、幻想的な風景が、一転した抽象的な概念とともに演出されている。
ヒロインの故郷喪失者としての痛みと再生への渇望が、長い映画を見終えた余韻の中に浮かび上がった。
 


 
 
 

『凍蝶圖鑑』

 映画『凍蝶圖鑑』を観た後、「凍蝶」の意味を調べた。映画館から出た後だったので、スマホに頼るしかなかったが、"寒さのため凍てついたようになる蝶のこと。飛んでも鈍く、ほとんどは動かない。哀れさという点では「冬の蝶」より差し迫った感じがある。" と説明してある季語のサイトを見つけた。http://kigosai.sub.jp/kigo500c/234.html
けれど、映画に出てくる凍蝶たちは、記されている意味のような不自由さとは程遠い存在に感じられていたので、あまり季語サイトの意味は参考にしなかった。
 
 次に気になったのが「圖鑑」という言葉であった。わざわざ「図鑑」を「圖鑑」という旧字体に記すあたり、「凍蝶」という意味に対しての違和感とともに、制作側の商業的演出ひいては悪意を感じもした。

 けれど、映画に出てくる個性という言葉では表現できない性の煩悩の出演者たちの姿を見るにつけ、やはり、この映画のタイトルは『凍蝶圖鑑』が相応しかったのではないかと後になって思った。

 淀川、新世界、おそらく西区辺り、私にとって馴染みの深い街の日時計に拘らない通日ひょっとすれば闇の世界を背景に、出演者たちは凍蝶どころか、ひとときに躍動する蝶のように遠慮なく自身の変態性を持って、鑑賞者を捕らえる。

 「凍蝶」という名を付けられた出演者たちは、確信犯的に、自分たちを「凍蝶」と呼号する。
私たちが思う以上に性的マイノリティたちの逞しさは、『凍蝶圖鑑』というタイトルの映像を余裕を持ち容認する事で証明されたのだ。


 

リスク回避の冒険者たちと、リスクを回避しないレスラーたち

 統計をもとに記す訳ではないが、恐らく、今のプロスポーツで最も死亡事故の件数が多い競技はプロボクシングではないかと私は思う。
 実は脳を揺らす凶器であるグローブを用いて、主に頭部を殴り合うボクシングは、素手よりもリスクの高いスポーツであると云われている。一時、ボクシング禁止論の出た先進国も存在したが、それほどの危険性を含んだ競技である事は間違いない。
 しかし、どの時代も、若者が抱く夢は、リスクのある冒険世界が主流である。リスク伴う危険性のある事柄に挑む若者を批判するのは、人間の尊厳を否定する事かもしれない。もっともボクシングに挑む若者たちは、死亡のリスクのある事柄に挑むための免罪の証書を、日々の練習で、それこそ命を削るくらいの熱量を持って書き上げる。
 すなわち自分の身を守るための練習に熱量を費やすのである。だからこそ若者の危険な冒険を批判する資格は、我々にはないのだ。

 ボクシングに限らない。ひいてはスポーツ競技に限らない。登山から自動車運転に関わらず、人の活動性にはリスクが伴う。しかし、どんな活動性であれ、冒険するための条件は、リスク回避のための反復練習を乗り越えてきた者たちだ。

 しかし、この世の中で、一つだけリスク回避の練習はおろか、リスクを回避しない事が美徳とされる世界がある。それが現代プロレスである。

 まずプロレスラーたちはリスク回避のための後ろ受け身を繰り返す。通常、背中をマットに打ち付けて受け身を繰り返す事は、動物的な本能に反した行為であり、当然、練習の段階で、揺らされた脳は疲弊する。
 自分たちがリスク回避のためにと強制する練習で、まず、レスラーたちの脳は損傷を受けている。リスク回避の原点からして、何かを誤解しているのだ。
 自分の背中をマットに幾度も打ち付け、本番前の段階から、脳を損傷させつづけ、これがリスク回避のための練習だと強制させる。これが現代・プロレス界の真実だ。 

 相手を固定して、首筋にエルボーを打ちつけ、その攻防を繰り返すというプロレスラーたちの「痛い攻防演出」あるいは「根性演出」がある。それはリスク回避のための練習を怠った人間たちの安易な演出であるとしか私には思えない。相手を固定して、相手を気絶させるほどの打撃は与えないが、相手の頸椎ひいては脳に響く打撃は繰り返す。相手の脳は揺らしても良いが、相手との信頼関係に成り立つ攻防という摩訶不思議な世界でもある。

 プロレスは、本来、本当の痛みに頼らずとも、リアリティやスペクテーター性を演出できるジャンルだ。それが信頼性であれ、不信感であれ、どちらのベクトルに転んでも、かつてのプロレスラーたちは相手に致命的な損傷を浴びせずとも、そのリアリティを演出できていたはずだ。
いちファンが偉そうに記す事でもないが、私がプロレス団体のオーナーならば、打ち合わせをしても良い、打ち合わせがなくても良い。ただし、首筋へのエルボー合戦は無し、あるいは後ろ受け身を有する技は二回まで。そういうルールを強制したいものだ。それでファンが沸かなければ、それで良いではないか。

 おかしなことに、三沢氏の殉職以降、団体、マスコミ含めて、業界側はほとんど、この危険なプロレス界の兆候を問題提起してこなかった。相手の脳を揺らし続け、頸椎に損傷を与える首筋への打撃をスタートとするプロレスでなければ、もはやプロレスは存在できないのだ。それは、実は多くのプロレス団体もマスコミも知る暗黙の事実なのであろう。