『凍蝶圖鑑』

 映画『凍蝶圖鑑』を観た後、「凍蝶」の意味を調べた。映画館から出た後だったので、スマホに頼るしかなかったが、"寒さのため凍てついたようになる蝶のこと。飛んでも鈍く、ほとんどは動かない。哀れさという点では「冬の蝶」より差し迫った感じがある。" と説明してある季語のサイトを見つけた。http://kigosai.sub.jp/kigo500c/234.html
けれど、映画に出てくる凍蝶たちは、記されている意味のような不自由さとは程遠い存在に感じられていたので、あまり季語サイトの意味は参考にしなかった。
 
 次に気になったのが「圖鑑」という言葉であった。わざわざ「図鑑」を「圖鑑」という旧字体に記すあたり、「凍蝶」という意味に対しての違和感とともに、制作側の商業的演出ひいては悪意を感じもした。

 けれど、映画に出てくる個性という言葉では表現できない性の煩悩の出演者たちの姿を見るにつけ、やはり、この映画のタイトルは『凍蝶圖鑑』が相応しかったのではないかと後になって思った。

 淀川、新世界、おそらく西区辺り、私にとって馴染みの深い街の日時計に拘らない通日ひょっとすれば闇の世界を背景に、出演者たちは凍蝶どころか、ひとときに躍動する蝶のように遠慮なく自身の変態性を持って、鑑賞者を捕らえる。

 「凍蝶」という名を付けられた出演者たちは、確信犯的に、自分たちを「凍蝶」と呼号する。
私たちが思う以上に性的マイノリティたちの逞しさは、『凍蝶圖鑑』というタイトルの映像を余裕を持ち容認する事で証明されたのだ。


 

『走れ、絶望に追いつかれない速さで』

 私が、始めて観た中川龍太郎監督の作品は、昨年、大阪で上映された『愛の小さな歴史』だった。若手キャストの熱のこもった演技や、個人的に好きな淡い質感のあるフィルムに魅せられて、注目した監督であった。
 しかし、作品のキャスト、台詞の間、映像含めた独特の質感に魅せられた一方、個人的に違和感を伴う演出もいくつか見受けられたことが記憶に残っている。
 例えば、沖渡崇史演じる夏生は非合法な金貸しだが、今時、派手なジャケットと開襟シャツを合わせた金貸しなど、お目にかかる事はない。まして債務者が自殺したとして号泣して、金貸しの夏生が詫びるシーンも含めて、全てがステレオタイプな想像の万物でしかない。テレビドラマならともかく、痛みを伴うインディーズ映画の演出としては例えディフォルメトしても疑問符がつく。
 おそらく中川龍太郎は、そういう世界とは無縁の世界で育ってきたのだろうと勝手ながら想像できた。全くキャストの演出にリアリティが存在しないのだ。しかし、体験していない世界を想像することとは創作者の挑戦でもあり、私は、中川龍太郎という監督の「青さ」を感じながらも、次の作品に期待した。
 
 今年に入り、『走れ、絶望に追いつかれない速さで』を観た。
前作と同様、その映画独特の間や映像美に見蕩れた。しかし、「青さ」は相変わらずであった。
 主人公は、親友との死別つまり「二人称の死」を長く受け入れられず、勤め先を身勝手に休み、自分なりの喪の儀式を求め、故人を求める旅に出る。
 しかし、普段は町工場で働く主人公が、贅沢な自家用車で長距離を走りまくる。
 そこには、実生活で黙々と感情を押し殺し、仮面を被る大人たちにとっての中川龍太郎作品への違和感が象徴されている。
 私が勝手に想像するに中川龍太郎とは経済的な苦労を伴わない青春時代を送った「坊っちゃん」なのであろう。私が氏の作品に感じた「青さ」とは、正直、「坊っちゃん」の青さと感じざるを得ない。
 彼の「青い創造」「青い遍歴」、中川龍太郎の作品には、市井の庶民とはほど遠い「青さ」が常に存在しているのだ。
 
 けれども、どのような青春の遍歴を歩んだとしても、「青い時代」は人それぞれ存在しているものだ。
 生育歴は違っても、共通するそれぞれの「青さ」に投げかける何かを、それでも中川龍太郎は持っているのではないかと、私はそのフィルムの質感の美しさを通してだけであるが、彼の可能性への期待ともに信じざるを得ない。
 それは彼の感受性が、生育歴や経済的格差を越えた共通の「青い」痛みを伴っているからではないかと私は思う。




『イノセント15』

 流れる映像はあまりにも美しいが、その美しさは痛覚を刺激する。痛みを伴った美しさが青春に相応しいのだろうが、青春期と呼ぶにはまだ早い15歳の男女の魂の静かな咆哮の物語である。
 15歳という年齢は、自身の感受性の発芽に対して、無力さを感じる年頃でもある。社会的地位、体力、子供の頃には感じなかった目の前の強大な大人社会に対しての無力さを最も痛感する時期であったように私的には思う。
 銀は父子家庭であるが、ゲイである父親の恋人の出現に戸惑う。成美は母子家庭であるが、母は高校受験を前にした成美のテキストをトイレに流し、自分の男に抱かれろと命じる。
 ゲイは存在を否定される性ではないが、自分の娘を自分の男に抱かせようとする母親の性は赦されるべきではない。しかし、15歳の男と女にとっては、どちらも自身を揺るがせ、追いつめる、残酷な現実である事に変わりはない。
 母親の男に抱かれようと決意した成美を救出するために、銀は男と格闘する。15歳という大人の階段を上り始めた男の子さえ、成人の男には腕力で勝てず打ちのめされてしまう。このシーンに、15歳の男の子が感じるであろう無力感が見事に仮託されている。
 子供が対峙する最初の敵とは、大人の性と暴力である。その二つに子供たちは翻弄され、大人に対しての脅威を感じる。そして、その強大な敵に立ち向かう最初の年齢が15歳であるように私は思える。
 銀は強大な敵に打ちのめされたが、銀の友達二人が、男を必死に押さえ込む。全編、美しい映画であったが、私が最も心揺さぶられたシーンであった。強大な大人に立ち向かいたいとき、心強い同じ年の仲間を、心のどこかで探し求めたとき、確か、私も15歳であった。
 銀が父親に対して伝える。「どこに行くのか分からないけれど、いかなくてはいかない。」
 近年、これほど痛い美しさを伴った映画は見た事はない。