昭和プロレスメディアの終焉・最悪のプロレスラー自伝

 私は昭和プロレスファンであり、その曖昧な定義を追い求めて、再びブログに時折記すだけのファンでもある。
しかし、昭和に活躍したあるトップレスラーの自伝を読むにつけ、その内容に驚愕し失望してしまった。
 そのレスラーの自伝を発行した出版社は、昭和のプロレスをテーマにした雑誌を真面目に刊行しており、私も雑誌の読者の一人であるが、最近は、立ち読みで済ましている宝島社の昭和プロレス暴露ものと変わらない読後感を抱いてきたのも事実だ。もちろん宝島社のそれと異なり、丁寧なインタビューと写真、体裁を用いた記事に興味を引かれる。そこに昭和のプロレス愛を感じもする。しかし一度、書店で活字を追いかけて内容を把握すれば、その雑誌をレジに運ぶ気は失せてしまう。
 平成ではなく、昭和のプロレスを題材にしているとはいえ、誰と誰が仲悪かった、誰と誰が喧嘩した。そういうゴシップ的なインタビュー記事を、書棚におきたいとは思わない。しかしながら、その雑誌のインタビュー記事には、ゴシップ的ではない、当時のプロレスラーたちの心象風景がぎりぎり下世話な記憶にならず記されている事も多かったので、読者であり続けた。
 しかし、今回は、昭和のプロレスラーの回想録、自伝という体裁を保ちながら、ここまで、その回想者である昭和のプロレスラーを陥れるような編集をしたことに呆れてしまう。
 
 キラーカーンは、相撲、日本プロレス、そして新日本プロレスと三つの場所において下積みを繰り返した後に、とうとう海外にて成功していく。
 その道のりは当時なじみ深かった昭和の名優キラー・カーンだけに安易に感情移入できる。活字を一気に読む込むための追い風に溢れた一冊であった。
 
 しかし、疑問かつ残念に思う記述が二つほどあった。
 
 キラー・カーンは、他者からの告げ口だけを信用し、被害妄想を月日とともに増長させ、あげく、自身より軽く30センチは低いであろう相手に一方的な暴力を振るう事に成功する。一度殴るだけならず、何度も無抵抗の相手を殴り続けるキラー・カーンの恨み節を果たしてどれだけの人が理解できるだろうか。
 キラー・カーンが悪びれず回想する風景からは、カーンが自身の暴力性を原因としたドメスティックバイオレンスに罹患していないことを証明している。 
 それは、次の暴力への危惧でもあるが、危惧は現実となり、キラーカーンは、次に憎しみを持った相手を刃物で殺めようと包丁を購入する。そして、その動機も、他者からの告げ口だけである。
 
 真実を確かめることもなく、他者からの告げ口によって、裏切られたと被害妄想を瞬間的に膨らませる。それは我々社会人にとっても、日常茶飯事の風景でもある。
 しかし、実際に真実を確かめる事もなく、被害妄想を膨らませ、暴力を振るい、あげく、人を殺めるための刃物を購入する。真実であろうとなかろうと、社会人として生きていれば有り得ない心象風景のループをキラー・カーンは繰り返す。もちろん昭和のプロレスラーに対して社会人の道理など求めてはいない。けれども社会人以下の昭和のプロレスラーの幼稚な心象風景など誰が読みたいであろう。
 それがカーンの純粋な心性だというならば、編集者は、なぜ、カーンの純粋なそれを守ろうとしなかったのだろう。
 家族の姿が浮かんで殺意を捨てたという編集者の一銭記述に呆れてしまうばかりである。
 
 自伝を出して、自身が一方的に暴力を振るい続けた相手との対談を、自伝の編集元である雑誌は企画した。
対談後に発売されたキラーカーンの自伝の記述と自己への一方的な批判を読み、浜田は何を想うであろう。

 私はキラー・カーンを批判しているのではない。
キラー・カーンへの愛着もある。昭和の名プロレスラーの回想録が出版されることは嬉しい。その中には時として生々しい記述もあるであろう。
 また、スキャンダラスな記述も商業的には必要だ。
 
 しかし、自伝の編集者は、宝島社のプロレス暴露ものと同じように、スキャンダラスな回想を導きだすことで、カーンの価値を落としてでも本を売りたいのだろうか。

 包丁を商売道具にして生業を立てる元プロレスラーが、人を殺めるために包丁を購入した事がある。
こんな事実、私が編集者だったら、絶対にのせない。
 キラー・カーンの価値を落とさないためにも。



アントニオ猪木の隠喩的プロレス

 アントニオ猪木は、あまり強い打撃を受ける事を好まないプロレスラーであった。そもそも新日本創立以降のアントニオ猪木の体型が、相手の強い打撃を受ける事を前提としていないものだ。
 どちらかというと相手の強い打撃は半身でそらし、そして、その弱々しさが相手の打撃の激しさのリアリティを感じさせてきた。
 しかし、私が知る限り、アントニオ猪木が強い打撃を能動的に受けきった試合があった。大木金太郎との試合である。大木金太郎の強烈な頭突きを受けきる猪木の姿は、相手の激しい打撃を受けきる昨今のプロレスの光景に通じるものもある。
 けれど、アントニオ猪木は、大木の頭突きを受けて、仁王だちはしない。そして強烈な頭突きを浴びる自身の患部でもある頭部を直接用いての痛みの表現もしない。
 頭突きを受けたアントニオ猪木が痛みを表現する部位は、自身の長い足である。
 自身の長い足の膝裏をマットに静かに寝かせ、あるいは膝を折りたたむことで、自身の頭部への痛みを表現していく。
 相手の強烈な打撃に我慢できない自分の痛みを表現し、それでも前に出る自身を表現しようとする。頭突きに対する痛みのメタファーは自身の長い足である。
 純プロレス全盛の昨今であるが、行き過ぎたディフォルメで痛みと感情を表現しようとしている感もある。
純プロレスにおいて、膝の動きだけで頭部の痛みを表現できるような純文学的レスラーの出現を待ちわびたい。


 

女子プロレスラーたちの最後のリアル・ファイト

 かつて日本の女子レスリング黎明期、数多くの女子全日本王者を輩出したクラブは、プロレス界の老舗「全日本女子プロレス」であった。女子レスリング黎明期、体力も、運動経験も高いレベルとはいえなかったレスリング初心者が殆どの大会において、同じく初心者とはいえ、本格的な体力練習を積んでいた女子プロレスラーたちが多くの階級を制するのも当然の事であった。
 その当時は、女子格闘技と女子プロレスの関係には、高い親和性が存在している。
当時の女子格闘技のレベルに対して、高いレベルのオーディションで選ばれた体力のある女子プロレスラーの存在は、五輪競技に邁進しつつあった女子柔道を除けば、十分にトップを担える集団であった。
 その当時から30年ほど経過した今年に入り、不思議な事に、女子プロレスラーたちが再び、競技スポーツに挑み始めた。女子格闘技のレベルが、男子格闘技のそれと比較して同様の層の厚さを担っているとは考えにくい。当時の女子レスリングほどの層の薄さではなかろうが、それでも男子プロレスラーが太陽に向かうがごとく、総合格闘技での誉れを狙うほどではない現実性が、女子プロレスラーの総合格闘技挑戦には存在している。
 今年に入り、レベルの高低はともかく、二人の女子プロレスラーが、リアルファイトで勝利した。
 ジャジー・ガーベルトはその後を追うように、本国での経験をもとに、日本でのリアルファイトに挑んだ。普段の女子プロレス界のミニマムな世界で生きてきた彼女は、初めてのメガイベントで浮き足だったところもあっただろう。けれど、一方的にやられたわけでもなく、その気概は相手の顔面を幾度かとらえた。
 私は女子プロレスラーが女子格闘技でのリアルファイトに挑戦していくのは今が最後のチャンスだと思っている。今は男子のプロレスと総合格闘技ほどの差は存在しない。しかし今の女子格闘技の台頭は、総合格闘技がプロレスを浸食しだした時の気配と実に良く似ている。
 なので、より多くの負けじ魂を持つ女子プロレスラーたちに今のうちにリアルファイトを経験していってほしい。
 今年、来年を過ぎれば、女子プロレスラーの挑戦も太陽に向かうがごとくの夢物語になってしまうだろう。