アントニオ猪木 最後の女性

 アントニオ猪木の近況が騒がしい。議員としての残りの任期、かつてのイラク人質救出のような誉れはいらない。せめてスキャンダルとは無縁で任期を全うしてほしいというのが私の願いである。
 しかし、アントニオ猪木の人生と同じく、猪木ファンにも、また平穏は存在しない。今回もまた、スキャンダルの再来に巻き込まれた猪木の苦悩と苦渋をともにすることしかできない自身の非力を、猪木に対して詫びることしかできないまま、波が静まるのを待つだけである。
 
 過去から身内からの告発の多い猪木である。外面の良さと反対に、内面の猪木に振り回されてきた、かつての身内のやり場の無い怒りは、ファンの分際で、理解は出来ないものであろう。
 我々ファンでさえ、さんざん、振り回されてきた。ファンに対しても、感動と失望の間を揺るがしてきたアントニオ猪木である。身内となれば、その度合いはファンとは比較にならないだろうし、失望の実態としての被害も大きなものであろう。

 私もアントニオ猪木の最後の団体として応援していたIGFへの猪木の整理発言当時、IGFに対して、身勝手な親に翻弄される子に対しての哀れみを抱いてもいた。
 しかし、哀れみを抱いた子たちが、親の人間性を否定しだした。生き残る為にファンの力が必要であったのだろうが、自身の親を批判し、自身の親のファンたちの同情を求める気持ちに到底理解は難しい。
 親の人間性を否定しながら、その矛盾に気づいたのか、以降は、親は悪く無い、親の周りが悪いと糾弾の方法を変えたようである。

 かつての身内たちの憤りも、私たち猪木ファンは理解しなければいけない。昔から、かつての身内たちよりのスキャンダルの告発を浴びてきたアントニオ猪木であるが、不思議なことに、みな、かつて自分たちが告発したアントニオ猪木という存在が、再び自分の方を向いてくれれば、和解どころか、かつての糾弾がなんであったのかというような喜びぶりを示すことも多い。

 みな、アントニオ猪木に自分の方を向いてもらいたくて仕方ないのであろう。
しかし、それは少なくとも無償の愛とは異なる姿である。

 今の猪木の奥さんは、私たちの英雄アントニオ猪木の肉体のケア、インシュリンの管理までしてくれている。アントニオ猪木を、少なくとも「動詞の愛」を持って労ってくれている存在である。そんな女性をアントニオ猪木が大切にしていることが、何故、洗脳なのだろう。

 私は私の英雄アントニオ猪木が最後に愛した女性、そして、猪木のケアをしてくれる女性に対して、一ファンとして感謝しかない。
 彼女がどういう女性なのかは、アントニオ猪木しか知らないことである。


プロレスラーの尊厳とは

 オカダカズチカが、心の鼓動をもとに、「プロレスラーは超人」発言を行った。それは自己の信じる職務への迷いを捨て去るための、若者の魂の声として、多くの人の心に響く発言であろう。
 
 皮肉にも、その矢先、ベテランプロレスラーである高山が緊急搬送された。危惧することは、回転エビ固めという比較的安全な技の中で起きたアクシデントと多くの人に認識されることである。
高山の怪我が、回転エビ固めの失敗でさえ、耐えられないほど頸椎を痛めつけてきた過去を要因としている事実を多くの業界人は踏み絵のように拒み続ける。

 オカダカズチカのいうように「安全な技なんて一個もない」のがプロレスラーたちの覚悟でもあろう。しかし「安全な技なんて一個もない」世界を遂行するプロレスーたちに賞賛するファンは、死にいく人々の自傷行為にしか熱狂できない変質的な鑑賞者でもある。

 冒険のない世界、リスクのない世界など存在しない。乳児は生まれてくるとき、アドレナリンによっての瞬発力を武器にして膣内での窒息死のリスクを防いでいる。人間ひいては動物とは生まれてきたときから、リスクある世界と背中を共にしなければいけない宿命を背負っているとも云える。
 動物の中で、人間はとくに生理的欲求でのリスク突破に飽き足らず、承認世界においてもリスク突破を求め始めた。それは多くの人が抱く冒険への憧憬である。

 冒険を求める人たちの通行許可証とは、リスク回避のための徹底した訓練である。分かりやすく記そう。
たとえばあなたが何の格闘技の実績もなく、ヒョードルと本気で闘える機会を得たとする。あなたがヒョードルと本気で闘うためにマットに上がれる最低限の基準とは、最低限の自分の身を守るための格闘技のディフェンス技術の習得である。そこに格闘技の場合のリスク回避の猛練習を繰り替えしてきた人のだけが与えられる、危険な場所に挑む行為への赦しが存在する。

 あらゆるリスクある挑戦は、リスク回避の徹底した練習を乗り越えた人たちだけに与えられた冒険の場所でもある。
 しかし近代プロレス界は、異質な世界である。アクシデントが起こらず一見、平穏に終わったとしても、脊椎から脳に至る部位を痛め続けることでしか成り立たなくなってしまっているからだ。

 プロレス界で怖いと思う認識は、リスク回避のために「受け身」に頼っていることだ。受け身という脳を揺らす行為はあらゆる生き物にとって不必要な動作である。柔道を始めとした格闘技で受け身の反復練習は、プロレスのそれの一割にも満たないであろう。
 受け身の練習自体が、脳に多大なるダメージを与えている。つまりプロレスラーたちはリングに上がる前から、脳を損傷させているのである。
 それはリスク回避のための猛練習を費やした上で、結果パンチドランカーになったというような人間の尊厳的冒険の果ての代償とは大きく異なる。それどころか生命への冒涜ですらある。

 登山の滑落、パラグライダーの墜落、あらゆる格闘技のリング渦といったリスクと、プロレスのそれは全く性質を異なることを、我々は認識しなければいけない。

 プロレス界は多少アクロバティックで、演劇的なタフマンコンテストという変わった自傷行為でしか、表現も冒険も出来なくなってきたのである。

 今のプロレス界は一件信頼関係のもとに成立しているように見えて、実は、相手を壊す技を持って、自身を表現しようとしている意味で悪質である。意図的でないだけにさらに悪質なのかもしれない。相手の壊し技を日々受ける事で、知らず知らずのうちに頸椎と脳は損傷する。結果、頸椎と脳に限界がきたときは、業界とファンが共犯関係となり、アクシデントと片付ける。

 SMの世界にも似た信頼関係であるが、プロレスラー同士にSとMの主従関係は存在しない。あくまでプロレスラーたちにとってのサディストとは、危険な技の攻防を持ってしか喜んでくれないファンたちなのである。

 奴隷であるプロレスラーたちは、多くの他のジャンルの冒険者たちのようにリスクのある挑戦をしている訳ではない。リスクの回避すら赦されてもらえず、一つ一つ命を粗末にする攻防を繰り返すしかないのだ。

 プロレスラーたちの命知らずの闘いは、実は命がけではない。人は命をかけるとき、あらゆるリスク回避のための本能と反復練習によって、生命の維持のために全力を尽くす。命をかけるという行為は、命を守るために最大限の練習を費やした冒険者たちに与えられた特権であるが、毎日、脳と頸椎を損傷させる自傷行為の儀式を繰り返すプロレスラーたちは命の尊厳にすら麻痺した感覚を持っていると云える。

 ひょっとしてプロレスラーたちは、このプロレス村という宗教に洗脳された命を安易に投げ出す犠牲的な信者といえるのかも知れない。






 

 

 

リスク回避の冒険者たちと、リスクを回避しないレスラーたち

 統計をもとに記す訳ではないが、恐らく、今のプロスポーツで最も死亡事故の件数が多い競技はプロボクシングではないかと私は思う。
 実は脳を揺らす凶器であるグローブを用いて、主に頭部を殴り合うボクシングは、素手よりもリスクの高いスポーツであると云われている。一時、ボクシング禁止論の出た先進国も存在したが、それほどの危険性を含んだ競技である事は間違いない。
 しかし、どの時代も、若者が抱く夢は、リスクのある冒険世界が主流である。リスク伴う危険性のある事柄に挑む若者を批判するのは、人間の尊厳を否定する事かもしれない。もっともボクシングに挑む若者たちは、死亡のリスクのある事柄に挑むための免罪の証書を、日々の練習で、それこそ命を削るくらいの熱量を持って書き上げる。
 すなわち自分の身を守るための練習に熱量を費やすのである。だからこそ若者の危険な冒険を批判する資格は、我々にはないのだ。

 ボクシングに限らない。ひいてはスポーツ競技に限らない。登山から自動車運転に関わらず、人の活動性にはリスクが伴う。しかし、どんな活動性であれ、冒険するための条件は、リスク回避のための反復練習を乗り越えてきた者たちだ。

 しかし、この世の中で、一つだけリスク回避の練習はおろか、リスクを回避しない事が美徳とされる世界がある。それが現代プロレスである。

 まずプロレスラーたちはリスク回避のための後ろ受け身を繰り返す。通常、背中をマットに打ち付けて受け身を繰り返す事は、動物的な本能に反した行為であり、当然、練習の段階で、揺らされた脳は疲弊する。
 自分たちがリスク回避のためにと強制する練習で、まず、レスラーたちの脳は損傷を受けている。リスク回避の原点からして、何かを誤解しているのだ。
 自分の背中をマットに幾度も打ち付け、本番前の段階から、脳を損傷させつづけ、これがリスク回避のための練習だと強制させる。これが現代・プロレス界の真実だ。 

 相手を固定して、首筋にエルボーを打ちつけ、その攻防を繰り返すというプロレスラーたちの「痛い攻防演出」あるいは「根性演出」がある。それはリスク回避のための練習を怠った人間たちの安易な演出であるとしか私には思えない。相手を固定して、相手を気絶させるほどの打撃は与えないが、相手の頸椎ひいては脳に響く打撃は繰り返す。相手の脳は揺らしても良いが、相手との信頼関係に成り立つ攻防という摩訶不思議な世界でもある。

 プロレスは、本来、本当の痛みに頼らずとも、リアリティやスペクテーター性を演出できるジャンルだ。それが信頼性であれ、不信感であれ、どちらのベクトルに転んでも、かつてのプロレスラーたちは相手に致命的な損傷を浴びせずとも、そのリアリティを演出できていたはずだ。
いちファンが偉そうに記す事でもないが、私がプロレス団体のオーナーならば、打ち合わせをしても良い、打ち合わせがなくても良い。ただし、首筋へのエルボー合戦は無し、あるいは後ろ受け身を有する技は二回まで。そういうルールを強制したいものだ。それでファンが沸かなければ、それで良いではないか。

 おかしなことに、三沢氏の殉職以降、団体、マスコミ含めて、業界側はほとんど、この危険なプロレス界の兆候を問題提起してこなかった。相手の脳を揺らし続け、頸椎に損傷を与える首筋への打撃をスタートとするプロレスでなければ、もはやプロレスは存在できないのだ。それは、実は多くのプロレス団体もマスコミも知る暗黙の事実なのであろう。