『ヤクザと憲法』

 かつてハリウッド映画「ブラックレイン」の舞台ともなったのが十三・栄町商店街であった。せっかく大阪の都心ミナミの非日常的な色彩都市を背景に多くのシーンを撮り終えているのに、監督であるリドリー・スコットが、アンディ・ガルシアが死に向かうネオンロードの舞台として選んだのは十三・栄町商店街のミナミと比べやや薄く少ない数のネオンで照らされた歓楽街の光景であった。
 大阪のヤクザを題材として、「ブラックレイン」は描かれたが、そのおそらく三十年近く後になり、舞台となった栄町商店街にある小さな映画館にて、ヤクザを題材としたドキュメント映画が上映された。
 その劇場には足繁く通っている私であるが、あそこまで劇場のロビーに人が溢れている光景は、その映画上映以外は観た事はない。一度、予約無しで出向いたものの、あまりの混雑に日を改めた程である。
上映時間より早めに出直した日は何とか椅子に座れるほどの列であったが、小劇場の小さな空間の両隣と背後は立ち見客に囲まれるほどであった。
 スクリーンに登場するヤクザたちは、西成の山王を拠点とする東組及び、その枝の組の人物たちである。実は、私の父は東組と古くに短期間のある縁があったが、そんな記憶とは関係なく、仕事で東組、及び滝本組の事務所前を通る事が多い。仕事や私生活でつきあうことは無いとはいえ、私にとってヤクザとは日常であり、少なくとも、日常と思っている光景の中で生きる人に対して、ヤクザが危害を加えることは無い。
 下積みを好む若者が少なくなった現在、わざわざヤクザ事務所に押し掛けるような人間は、どこか朴訥で、純な輩である。私が生まれ育った時から今まで感じている印象を、映画はある人物を追いかけることで具現化してくれた。
 もちろん暴力団といわれるヤクザを肯定する気など毛頭ない。
 それでも今の世の街には、ヤクザにも劣る暴力生が溢れている。半グレ集団、あるいは好き勝手に暴力的な言葉を吐けるソーシャルネットワーク。

 映画で描かれたヤクザたちの描写に演出性がかかっていたとしても、私には、上記した半グレや、ソーシャルネットワークでの素人の暴力言葉遣いよりも、どこか牧歌的な顔立ちに見えたことは確かだ。

 映画「ブラックレイン」にて、アンディ・ガルシアが死に向かう暴力の終点として描かれた十三・栄町商店街であるが、その遥か後、暴力とは何かを考える映画を上映することによって、鑑賞者は、暴力性の定義を考えざるを得なかったであろう。