『ある精肉店のはなし』

 映画「ある精肉店のはなし」を観たとき、映画の舞台となる貝塚に住む旧友のことを思い出した。大阪の地に細かく分かれた発音の特徴が、映画のキャストと友人と同じだったからだ。
 摂津人である私にとって、青春期に出会う事のできた泉州弁を操る濃い泉州風土の人たちの存在は、記憶の一つになっている。
 泉州の和泉市の同和地区に住む友人の家に遊びに行ったことがある。私たち都心の大阪、昔の摂津国のような狭い密集した都市の同和地区ではなく、どこか田舎的な原風景を醸し出しながら、適度に密集した同和地区の光景を二十歳のとき、新鮮に覚えた。

 映画「ある精肉店のはなし」の風景は、和泉と貝塚の違いこそあれ、若い頃、覚えた記憶と同じ風景と明度であった。
 部落解放運動に驀進するキャストを他人事のように思えるのは、私自身、同和地区の違うマイノリティであるからだ。ウシを育て屠畜する肉屋さんの風景に、昔を懐かしんだ。ただ一つ残念な事は、牛を屠畜するために、眉間を二度打ちしてしまった光景である。

 私は菜食主義者でもないし、動物愛護者でもない。子供の頃から、在日韓国人として肉を主の糧としたきた。
私が子供の頃、家は土建屋とともにステーキ店で生計を立てていた。
 私は牛によって、生きてこられた。なので動物愛護者ではないが、家畜福祉を望みたいのである。

 昨今、イスラム的屠畜が、実は家畜にいかなる恐怖も痛みも感じさせない屠畜方法として評価されつつある。イスラム教は私にとって避けたい宗教であるが、それでも戒律の強迫観念のもととはいえ、生きる動物の命を殺めるための真摯な心象が漂う屠畜の儀式でもある。
 映画「ある精肉店のはなし」は、人間の生活模様は描かれても、人間視点であることに変わりはない。その人間視点の珠玉のドキュメント映画に感動したが、眉間を二度打ちされたウシの悲鳴が、私の脳裏に刻印された映画でもあった。