『走れ、絶望に追いつかれない速さで』

 私が、始めて観た中川龍太郎監督の作品は、昨年、大阪で上映された『愛の小さな歴史』だった。若手キャストの熱のこもった演技や、個人的に好きな淡い質感のあるフィルムに魅せられて、注目した監督であった。
 しかし、作品のキャスト、台詞の間、映像含めた独特の質感に魅せられた一方、個人的に違和感を伴う演出もいくつか見受けられたことが記憶に残っている。
 例えば、沖渡崇史演じる夏生は非合法な金貸しだが、今時、派手なジャケットと開襟シャツを合わせた金貸しなど、お目にかかる事はない。まして債務者が自殺したとして号泣して、金貸しの夏生が詫びるシーンも含めて、全てがステレオタイプな想像の万物でしかない。テレビドラマならともかく、痛みを伴うインディーズ映画の演出としては例えディフォルメトしても疑問符がつく。
 おそらく中川龍太郎は、そういう世界とは無縁の世界で育ってきたのだろうと勝手ながら想像できた。全くキャストの演出にリアリティが存在しないのだ。しかし、体験していない世界を想像することとは創作者の挑戦でもあり、私は、中川龍太郎という監督の「青さ」を感じながらも、次の作品に期待した。
 
 今年に入り、『走れ、絶望に追いつかれない速さで』を観た。
前作と同様、その映画独特の間や映像美に見蕩れた。しかし、「青さ」は相変わらずであった。
 主人公は、親友との死別つまり「二人称の死」を長く受け入れられず、勤め先を身勝手に休み、自分なりの喪の儀式を求め、故人を求める旅に出る。
 しかし、普段は町工場で働く主人公が、贅沢な自家用車で長距離を走りまくる。
 そこには、実生活で黙々と感情を押し殺し、仮面を被る大人たちにとっての中川龍太郎作品への違和感が象徴されている。
 私が勝手に想像するに中川龍太郎とは経済的な苦労を伴わない青春時代を送った「坊っちゃん」なのであろう。私が氏の作品に感じた「青さ」とは、正直、「坊っちゃん」の青さと感じざるを得ない。
 彼の「青い創造」「青い遍歴」、中川龍太郎の作品には、市井の庶民とはほど遠い「青さ」が常に存在しているのだ。
 
 けれども、どのような青春の遍歴を歩んだとしても、「青い時代」は人それぞれ存在しているものだ。
 生育歴は違っても、共通するそれぞれの「青さ」に投げかける何かを、それでも中川龍太郎は持っているのではないかと、私はそのフィルムの質感の美しさを通してだけであるが、彼の可能性への期待ともに信じざるを得ない。
 それは彼の感受性が、生育歴や経済的格差を越えた共通の「青い」痛みを伴っているからではないかと私は思う。