プロレス原罪への赦しは必要ない。

 自分が危惧した事が、現実になったとして、犠牲者や、そのファンの人たちに「それ、みたことか」というような言葉を投げかける趣味は私にはない。
 けれど、私は、2000年代におけるノアのプロレスにおいて、必ず死者が出ると以前のブログに記した事がある。当時のノアのプロレスを観たならば、コンタクトスポーツを多少也とも齧った人間誰しも危惧する思いを記しただけである。
 
 日本において、プロレス黎明期、非日常の空間を観客にもたらすプロレスのお家芸は「流血」であった。日常ではなかなか遭遇しないであろう人間の流血と言う事象が、プロレスをスポーツでありながら、しかし、それ意外の何かであるという信号的な演出として発信させ、結果、観る者にプロレスを特異なジャンルとして認識させた。
 そのとき、危惧された事は、感染症の恐怖であった。人をだまして金を稼ぐ。お約束ではない、まだプロレスがスポーツ新聞に載るグレーゾーンのスポーツ競技として成り立っていた頃、プロレスラーの「人を騙して金を稼ぐ」という意識の原罪が、奇妙な職務の遂行を起こした。
 流血している非日常の空間とは、嘘ではなく、本当の血である事に、プロレスラーたちは原罪の赦しを求めた。流血は演出である。その血は、しかし、本物の血なのだと。
 プロレスラーたちが原罪の許しを真面目に求めた、本当の血液によって、感染症の苦しみを晩年味わったプロレスラーたちは、私たちが想像する以上に多いかもしれない。

 時代が経過すると、非日常を演出するための定番は、「出血」から「高さからの落下」に変わった。出血も、高い場所からの落下も、日常では、なかなか有り得えないことでありながらも、実は、誰しもが潜在的に危惧する本能としての恐怖でもある。
 プロレスラーは、その恐怖を、非日常性の演出として利用してきた。
 そこで、危惧される事とは、高い位置からの落下そのものに対してではなく、高い位置からの落下に備えるためのプロレス特有の受け身の反復練習である。これも私が以前、ブログで記してきた事であるが、人間とは、例えば猫と同じく、高い位置から落下するとき、頭部や背中を守ろうと、身を翻し、着地を求める生き物である。何度も、背中を叩き付けて、結果、脳を揺らすという不自然な反復練習によって、本番のリングで受け身を行う以前に、プロレスラーの脳は、既に、揺らいでいるのではないかと私は思う。
 私が以前のブログでそのことを記して数年後、Gスピリッツ誌において安生洋二も同様の意見を述べている。私ごときファンが記すよりも、貴重な意見であったように思うが、不幸にも誰にも届いていないようである。

 総合格闘技が現れて以降、プロレスラーの原罪への許しは、総合格闘技に負けない「痛み」や「激しさ」に傾倒していく。実際には、気絶するほどのダメージを浴びる総合格闘技に負けることのない「痛み」や「激しさ」など有り得ないはずである。しかし、プロレスラーたちは必死になって、それを求め、結果、頸椎から胸板へ至る音のなる激しい打撃の応酬に行き着いた。
 もはや、その演出的応酬は、タフマンコンテストの劣化版であるが、格闘技ギミックを捨てたプロレスラーたちは、そこにしかプロレスの激しさを見つけられないようだ。
 対峙して構えた相手の胸板や頸椎に激しい、かつ、鋭角な鈍器を当てる。身体は逃げる動作を許してもらえず、脳が犠牲になる。脳以前の頸椎、脊椎が犠牲になる。
 激しいプロレスの演出を求めて、自身の身を粉にするのは勝手だが、同じようなことを、自身の後輩に、あるいは子供にさせたいのなら、今のプロレス界は狂っているとしか言いようかない。
 
 あるいは自虐的と言わざるを得ないような攻め手側の攻撃もある。
頭部から体当たりするヘッドバット系の技は言わずもがなである。あるいは思い切り身体を反らして、相手にぶつかるアタック系の技である。その反り具合は年々エスカレートする限りである。
 頭部ではなく胸からぶつかったとしても、脊椎に多大な衝撃を与える技の危険性を感じてほしい。

 私は今のプロレスを詳しく知らない。たまに暇な時間、動画や写真を眺めるだけである。そんな人間に、今のプロレスを否定する資格はない。

 しかし、私がファンだった頃のプロレスラーたちよりも、今のプロレスラーたちは数倍、プロレスセンスに溢れている選手たちだと思っている。
 そんな今のプロレスラーたちだからこそ、プロレスというフェイクのジャンルであっても、決して、本物の痛みや危険に頼らず、緊張感のあるプロレス、特異なジャンルとしてのプロレスを表現できるはずである。
 まして、これだけレスラーたちも、ファンも、成熟したジャンルが、ジャンル外に媚を売るように、不必然な危険なリスクをプロレスの免罪符にする必要などないだろう。

 例えば、本当に痛いと技だと思ったら、受けなければ良い。受ける事がリアリティではない。
受けない事で生まれるプロレスのリアリティもあるはずだ。