『イノセント15』

 流れる映像はあまりにも美しいが、その美しさは痛覚を刺激する。痛みを伴った美しさが青春に相応しいのだろうが、青春期と呼ぶにはまだ早い15歳の男女の魂の静かな咆哮の物語である。
 15歳という年齢は、自身の感受性の発芽に対して、無力さを感じる年頃でもある。社会的地位、体力、子供の頃には感じなかった目の前の強大な大人社会に対しての無力さを最も痛感する時期であったように私的には思う。
 銀は父子家庭であるが、ゲイである父親の恋人の出現に戸惑う。成美は母子家庭であるが、母は高校受験を前にした成美のテキストをトイレに流し、自分の男に抱かれろと命じる。
 ゲイは存在を否定される性ではないが、自分の娘を自分の男に抱かせようとする母親の性は赦されるべきではない。しかし、15歳の男と女にとっては、どちらも自身を揺るがせ、追いつめる、残酷な現実である事に変わりはない。
 母親の男に抱かれようと決意した成美を救出するために、銀は男と格闘する。15歳という大人の階段を上り始めた男の子さえ、成人の男には腕力で勝てず打ちのめされてしまう。このシーンに、15歳の男の子が感じるであろう無力感が見事に仮託されている。
 子供が対峙する最初の敵とは、大人の性と暴力である。その二つに子供たちは翻弄され、大人に対しての脅威を感じる。そして、その強大な敵に立ち向かう最初の年齢が15歳であるように私は思える。
 銀は強大な敵に打ちのめされたが、銀の友達二人が、男を必死に押さえ込む。全編、美しい映画であったが、私が最も心揺さぶられたシーンであった。強大な大人に立ち向かいたいとき、心強い同じ年の仲間を、心のどこかで探し求めたとき、確か、私も15歳であった。
 銀が父親に対して伝える。「どこに行くのか分からないけれど、いかなくてはいかない。」
 近年、これほど痛い美しさを伴った映画は見た事はない。