1984年のUWFについて

 UWFとはフェイクだったのではないか、そのことを直接、前田日明に問いただす事が検証ではない。前田日明が何故、従来のプロレスに失望したのか。その答えを反芻することでUWFの真実の断片が見えてくる事もある。
 そういう意味で柳澤健氏の著作「1984年のUWF」は、前田日明に文頭の言葉を投げかけるのでもなく、あるいは前田日明にUWFスタイルを求めた心象の経緯を聞いた訳でもなく、またUWF以前の前田日明の発言に注目もしていない。私は柳澤氏の著作の愛読者であるが、今回の作品に限っては、非常に確証バイアスに則った作品であるように思う。
 前田日明の言葉で印象に残っているものが三つほどある。新日本プロレスブーム真っ盛りの頃の軍団抗争に対して「やくざの抗争」と言い放った事。そして、「NWAの権威が落ちたのは、ダスティ・ローデスが王者になってからだ」という言葉である。軍団抗争に対しては、数年後の世代抗争のオープニングにおいても再度、軍団抗争を否定する発言を行っている。前田日明が不良の祭典を主催する現在に至っても否定する「やくざの抗争」を毛嫌いする原点がそこにある。また、ダスティ・ローデスを否定する理由をダスティ以前の前王者たちと比較し、その相違を確認すれば一目瞭然である。リングシューズではなくウェスタンブーツ。適度な脂肪に包まれた肉体ではなく過度な脂肪に覆われた肉体。試合スタイルについては言わずもがである。二つの発言から推測するに前田日明はプロレスに対して非常にスポーツ競技としての体裁を求めていたのではないかという事である。そこで注意すべきは前田日明が求めたスポーツ競技としての体裁とは、はたして、リアルな競技に行き着く事だったのか、あるいは、あくまでスポーツ競技の体裁としてのプロレスだったのか。私は後者であると思っている。決して真剣勝負を求めたのではなく、真面目にスポーツ競技としての体裁を守る、すなわち競技ギミックを守るプロレスを求めたのではないか。私はそう推測する。前田日明とは、真剣勝負ではなく、競技ギミックを全うしようとするプロレスの原風景を求めていたのではないかと。
 個人的なことを記せば、私はお約束的なプロレスも好きである。つまり、プロレスは競技ではないことを仄めかす軍団抗争、怪人、そういうアングル、ギミックの類いもプロレスの魅力の一つであると私は思う。しかし、前田日明が求めたプロレスのギミックは実直なまでにスポーツ競技であったのではないか。フェイクであるプロレスにおいて、ショーとしての仄めかしは、原罪の赦しでもある。最たるものはハッスルであったし、最近のプロレスは、その仄めかしが主流である。真剣勝負ではないプロレスを、真剣勝負だと言い張る事は、実は、原罪の赦しを求めない最高のプロレス愛でもある。
 前田日明のプロレス愛は、なにかに似ている。全日本プロレスのオープン選手権から始まる王座争奪戦、ひいては後の四天王のプロレス。競技スポーツしての体裁としては同じ類いでもある。不思議な事に全日本プロレスの特にオープン選手権と、前田日明の初期リングスからは異なる匂いから同じ「くすび」を感じもする。どちらも、原罪の赦しを求めない真面目なプロレスの姿でもある。
 私がUWFに対しての否定したいのは、UWF自体ではなく、UWFを後押しした80年代のスノップな文化人たちである。格闘技もプロレスも知らない流行発信者たちが、UWF=真剣勝負、すなわち最先端のプロレスとしてて、スノップな80年代的文化としてのジャンルに祭り上げた。本来ならプロレスの原罪を真面目に背負おうとしていたUWFの覚悟とは裏腹に、彼ら80年代の文化人、知識人たちの浅はかな罪、そして、それに乗ってしまったUWF自体が、UWFの罪そのものではなかったか。
 私が「1984年のUWF」を検証するならば、1984年のUWFを祭り上げた文化人たちの声を聞きたい。そう思ったときに、浮かんだ事がある。前田日明がプロレスに対して失望したことを推測させるもう一つの発言である村松友視氏の著作に対する、それである。
 文化人によるプロレス演劇論を否定した前田日明が、文化人のプロレス真剣勝負論によってUWFを消散させたとしたならば皮肉な事である。
 しかしながら前田日明は後の初期リングスにおいて、真剣勝負でもない、競技スポーツとしてのギミックを貫いた理想のプロレスを体現する。前田日明の理想のプロレスはそこに完結する。
 真剣勝負としての前段階としてUWF、そして初期リングスがあったのではない。前田の求めた真面目なプロレスの果てにUWF、そして初期リングスがあったのだ。