『海炭市叙景』

 『海炭市叙景』は、私がこの五年の間に観た映画の中で、もっとも、その余韻の残像が、大脳基底核に刻印された作品であった。闘うか、逃げるかを司る大脳基底核の判断のための過去の映像に、感動したかどうかとして刻印されたのは、その実像としてのフィルムではなく、心に残った余韻の残像でもあった。

 作品は、私小説作家である佐藤泰志の短編小説集を絶妙にオムニバス化した映像集でもある。
様々な人たちの日常の中の刹那の快楽と絶望が、微妙に他の人間模様に微妙に交差する。
 微妙な交差は、どこか遠慮気味だ。
 人は皆、どこかで人の人生と接する境界の中を生きざるを得ない。しかし、人は人と繋がりたい人生の境界を求めて、孤独の癒しを求めるが、人と繋がる境界は、ごく僅かでしかない。その、ごく僅かの境界の接点と接点を緩やかに一つ一つのエピソードは流れていく。

 淡々とした市民の日常の風景を、実に多くの名優たちが味わい深く演じている。
しかし、心に残ったのは、場末のスナックで一見客相手に商売語りの浮き世の風景を語る少々、不細工な女。
 そして、蒸発した後、腹を膨らまして戻ってきた飼い猫を抱きかかえながら、「産め、産め、ぜんぶ、面倒みてやる」と無責任に、そして、静かな覚悟を持って呟く老婆の姿。
素人俳優たちの戯言は、時として、虚構のからくりの映像をリアリティを持って、際立たせる。
 演技が下手な素人たちの戯言が、名優たちのそれよりも心に響いた。不思議な映画であった。