プロレスラーの尊厳とは

 オカダカズチカが、心の鼓動をもとに、「プロレスラーは超人」発言を行った。それは自己の信じる職務への迷いを捨て去るための、若者の魂の声として、多くの人の心に響く発言であろう。
 
 皮肉にも、その矢先、ベテランプロレスラーである高山が緊急搬送された。危惧することは、回転エビ固めという比較的安全な技の中で起きたアクシデントと多くの人に認識されることである。
高山の怪我が、回転エビ固めの失敗でさえ、耐えられないほど頸椎を痛めつけてきた過去を要因としている事実を多くの業界人は踏み絵のように拒み続ける。

 オカダカズチカのいうように「安全な技なんて一個もない」のがプロレスラーたちの覚悟でもあろう。しかし「安全な技なんて一個もない」世界を遂行するプロレスーたちに賞賛するファンは、死にいく人々の自傷行為にしか熱狂できない変質的な鑑賞者でもある。

 冒険のない世界、リスクのない世界など存在しない。乳児は生まれてくるとき、アドレナリンによっての瞬発力を武器にして膣内での窒息死のリスクを防いでいる。人間ひいては動物とは生まれてきたときから、リスクある世界と背中を共にしなければいけない宿命を背負っているとも云える。
 動物の中で、人間はとくに生理的欲求でのリスク突破に飽き足らず、承認世界においてもリスク突破を求め始めた。それは多くの人が抱く冒険への憧憬である。

 冒険を求める人たちの通行許可証とは、リスク回避のための徹底した訓練である。分かりやすく記そう。
たとえばあなたが何の格闘技の実績もなく、ヒョードルと本気で闘える機会を得たとする。あなたがヒョードルと本気で闘うためにマットに上がれる最低限の基準とは、最低限の自分の身を守るための格闘技のディフェンス技術の習得である。そこに格闘技の場合のリスク回避の猛練習を繰り替えしてきた人のだけが与えられる、危険な場所に挑む行為への赦しが存在する。

 あらゆるリスクある挑戦は、リスク回避の徹底した練習を乗り越えた人たちだけに与えられた冒険の場所でもある。
 しかし近代プロレス界は、異質な世界である。アクシデントが起こらず一見、平穏に終わったとしても、脊椎から脳に至る部位を痛め続けることでしか成り立たなくなってしまっているからだ。

 プロレス界で怖いと思う認識は、リスク回避のために「受け身」に頼っていることだ。受け身という脳を揺らす行為はあらゆる生き物にとって不必要な動作である。柔道を始めとした格闘技で受け身の反復練習は、プロレスのそれの一割にも満たないであろう。
 受け身の練習自体が、脳に多大なるダメージを与えている。つまりプロレスラーたちはリングに上がる前から、脳を損傷させているのである。
 それはリスク回避のための猛練習を費やした上で、結果パンチドランカーになったというような人間の尊厳的冒険の果ての代償とは大きく異なる。それどころか生命への冒涜ですらある。

 登山の滑落、パラグライダーの墜落、あらゆる格闘技のリング渦といったリスクと、プロレスのそれは全く性質を異なることを、我々は認識しなければいけない。

 プロレス界は多少アクロバティックで、演劇的なタフマンコンテストという変わった自傷行為でしか、表現も冒険も出来なくなってきたのである。

 今のプロレス界は一件信頼関係のもとに成立しているように見えて、実は、相手を壊す技を持って、自身を表現しようとしている意味で悪質である。意図的でないだけにさらに悪質なのかもしれない。相手の壊し技を日々受ける事で、知らず知らずのうちに頸椎と脳は損傷する。結果、頸椎と脳に限界がきたときは、業界とファンが共犯関係となり、アクシデントと片付ける。

 SMの世界にも似た信頼関係であるが、プロレスラー同士にSとMの主従関係は存在しない。あくまでプロレスラーたちにとってのサディストとは、危険な技の攻防を持ってしか喜んでくれないファンたちなのである。

 奴隷であるプロレスラーたちは、多くの他のジャンルの冒険者たちのようにリスクのある挑戦をしている訳ではない。リスクの回避すら赦されてもらえず、一つ一つ命を粗末にする攻防を繰り返すしかないのだ。

 プロレスラーたちの命知らずの闘いは、実は命がけではない。人は命をかけるとき、あらゆるリスク回避のための本能と反復練習によって、生命の維持のために全力を尽くす。命をかけるという行為は、命を守るために最大限の練習を費やした冒険者たちに与えられた特権であるが、毎日、脳と頸椎を損傷させる自傷行為の儀式を繰り返すプロレスラーたちは命の尊厳にすら麻痺した感覚を持っていると云える。

 ひょっとしてプロレスラーたちは、このプロレス村という宗教に洗脳された命を安易に投げ出す犠牲的な信者といえるのかも知れない。






 

 

 

『ある精肉店のはなし』

 映画「ある精肉店のはなし」を観たとき、映画の舞台となる貝塚に住む旧友のことを思い出した。大阪の地に細かく分かれた発音の特徴が、映画のキャストと友人と同じだったからだ。
 摂津人である私にとって、青春期に出会う事のできた泉州弁を操る濃い泉州風土の人たちの存在は、記憶の一つになっている。
 泉州の和泉市の同和地区に住む友人の家に遊びに行ったことがある。私たち都心の大阪、昔の摂津国のような狭い密集した都市の同和地区ではなく、どこか田舎的な原風景を醸し出しながら、適度に密集した同和地区の光景を二十歳のとき、新鮮に覚えた。

 映画「ある精肉店のはなし」の風景は、和泉と貝塚の違いこそあれ、若い頃、覚えた記憶と同じ風景と明度であった。
 部落解放運動に驀進するキャストを他人事のように思えるのは、私自身、同和地区の違うマイノリティであるからだ。ウシを育て屠畜する肉屋さんの風景に、昔を懐かしんだ。ただ一つ残念な事は、牛を屠畜するために、眉間を二度打ちしてしまった光景である。

 私は菜食主義者でもないし、動物愛護者でもない。子供の頃から、在日韓国人として肉を主の糧としたきた。
私が子供の頃、家は土建屋とともにステーキ店で生計を立てていた。
 私は牛によって、生きてこられた。なので動物愛護者ではないが、家畜福祉を望みたいのである。

 昨今、イスラム的屠畜が、実は家畜にいかなる恐怖も痛みも感じさせない屠畜方法として評価されつつある。イスラム教は私にとって避けたい宗教であるが、それでも戒律の強迫観念のもととはいえ、生きる動物の命を殺めるための真摯な心象が漂う屠畜の儀式でもある。
 映画「ある精肉店のはなし」は、人間の生活模様は描かれても、人間視点であることに変わりはない。その人間視点の珠玉のドキュメント映画に感動したが、眉間を二度打ちされたウシの悲鳴が、私の脳裏に刻印された映画でもあった。