『赤目四十八瀧心中未遂』

 映画『赤目四十八瀧心中未遂』は私の好きな私小説作家である車谷長吉の作品を映画化したものである。夢想の世界で私がもし、車谷長吉氏の作品を映画できるならば、間違いなく短編集「忌中」を選ぶだろう。死と隣り合わせの極限の心境の中で、それでも氏の表現で記せば「まぐわい」を持って、死ぬ前に最後に寄り添う他者の肉体の存在に性欲を感じ、その性欲によって絶望を少しでも相殺しようとする最果ての心象風景の中の描き方に、私は脅威すら感じた。
 それほどまでに「忌中」という作品の神秘と生活感が絶妙なバランスを抱き、近代の近松の市井版のような美しい心中世界に私は見蕩れてしまった。

 「忌中」と比較し、『赤目四十八瀧心中未遂』を読んだときの印象は、さほど衝撃的なものではなかった。『赤目四十八瀧心中未遂』というタイトルとは異なり、実際は赤目四十八瀧という死に場所に向かう男女の数日のまぐわいの恋物語でもある。映画の大部分は尼崎にたどり着い主人公の驚きと失望を軸に描かれる。
 おそらく慶応義塾を出た車谷長吉が体感した尼崎の風景とは、この世の果てに近いものがあったのかも知れない。映画によって仮託された演出は絶妙である。
 駅に着く也、いきなり内田裕也が煙草とライターを借りる描写、あるいは、オカマの娼婦(夫)、抱えたマネキン人形に語りかける怪しいカップル、いきなり主人公を無言で殴りつける同僚。
 すべてが、この世の果てと描かれた非日常の描写であるが、私のような尼崎人にとっては、さして驚く事のない、自身の故郷の風景でもある。

 しかし車谷長吉にとっては、尼崎とは、そこで育った訳でもなく、所詮、堕ちた自身が辿り着いた街でしかない。堕ちた自分に、それでもあきらめられないから表出する恐怖と不安が、尼崎という闇夜のダウンタウンに対しての車谷長吉のスリルとなって、氏の作品の緊迫性を際立たせる。

 映画『赤目四十八瀧心中未遂』の監督は、車谷長吉のそんな不安と恐怖と絶望感を、緊迫感溢れる映像を持って映画された。実に素晴らしい事だと私は思う。

『月の下まで』

 私は学校を出て、身体障がい者、知的障がい者が居住する階を異なる施設を有する社会福祉法人に就職する事が出来た。
その五年前まで、好き勝手な感情の振る舞いを怖い者知らずでやってきた私は、自分なりに真面目に運動と勉強、そしてアルバイトに励んできた月日が報われたと安易に感謝したが、やられたほうは忘れる事の出来ない傷を、私は十代との時に多く作りすぎてしまったような気もする。そんな私にとって、自分が生きていく上で赦される禊の職とは社会福祉と云われている職業としか当時は考えられなかったので、採用通知を頂いたときの喜びは今でも記憶している。

 当時は身体障がい者と知的障がい者という言葉もなかった。がいは害と記され、あげく知的障がい者は、精神薄弱者と云われていた時代であった。

 私は、まず知的障がい者の指導員を任命された。おとなしいダウン症の人々も入れば、他動な重度の人たちもいる。おかしな儀式を繰り返す人たちもいる。
当時は、自閉症も知的障がいも、あるいは精神障がいも、広義の精神的な障がいのカテゴリーに押し込められ、実に多種多様な人たちがいた。
 運動をしていたので体力には自信があった私も、彼ら彼女の自由な行動ぶりに応対するに、勤務時間を長く感じもした。

 映画『月の下まで』を観たとき、当時の施設入居者の何人かの事を思い出した。
シングル・ファーザーの主人公にとって、他動な息子の行動の範囲と度合いに、日々の生活の揺れ度合いが絶望的に増し続ける。主人公にとっては、私のような勤務時間も存在しない。すべてが愛する息子に費やされる時間でもある。

 そんな中、主人公が、決して心に余裕があれば抱く事も出来ない女を抱こうとし、しかし息子の行動で女は逃げ去ろうとする。本来なら、抱きたいとも思わないであろう場末の性の対象に対して、主人公は「行かないでくれ」と訴える。場末の性の対象でしかない女に対して、魂の救済を求める孤独な男の姿が見事に表現されている。

 物語の最後、主人公と息子がどこにいくのかは誰も分からない。しかし優しい父親、おにぎりの作り方を息子に伝えながら、現状からの旅立ちを思い立ち、船に乗る。

 結末は誰もの心の自由であるが、息子に翻弄されてきた父親の優しさが最後の場面に仮託され、感極まった。