アントニオ猪木の隠喩的プロレス

 アントニオ猪木は、あまり強い打撃を受ける事を好まないプロレスラーであった。そもそも新日本創立以降のアントニオ猪木の体型が、相手の強い打撃を受ける事を前提としていないものだ。
 どちらかというと相手の強い打撃は半身でそらし、そして、その弱々しさが相手の打撃の激しさのリアリティを感じさせてきた。
 しかし、私が知る限り、アントニオ猪木が強い打撃を能動的に受けきった試合があった。大木金太郎との試合である。大木金太郎の強烈な頭突きを受けきる猪木の姿は、相手の激しい打撃を受けきる昨今のプロレスの光景に通じるものもある。
 けれど、アントニオ猪木は、大木の頭突きを受けて、仁王だちはしない。そして強烈な頭突きを浴びる自身の患部でもある頭部を直接用いての痛みの表現もしない。
 頭突きを受けたアントニオ猪木が痛みを表現する部位は、自身の長い足である。
 自身の長い足の膝裏をマットに静かに寝かせ、あるいは膝を折りたたむことで、自身の頭部への痛みを表現していく。
 相手の強烈な打撃に我慢できない自分の痛みを表現し、それでも前に出る自身を表現しようとする。頭突きに対する痛みのメタファーは自身の長い足である。
 純プロレス全盛の昨今であるが、行き過ぎたディフォルメで痛みと感情を表現しようとしている感もある。
純プロレスにおいて、膝の動きだけで頭部の痛みを表現できるような純文学的レスラーの出現を待ちわびたい。


 

大阪球場

 学生の頃、大阪球場でバイトしていた。当時の球団「南海ホークス」のナイトゲーム後の清掃の仕事であった。箒で掃いたゴミをすり鉢状に落とし、そして、すり鉢状に追いかけるだけの、単調な仕事である。
 応援団の席の床からは麦酒の匂いが漂っていた。貧乏学生の身分で、せいぜい、トリスを何かで薄めるしか酩酊の機会の無かった私は、コンクリの床から立ち上がる麦酒の匂いに酩酊を夢想しながら、すり鉢のスタンドを下に降りた。
 応援団の席を過ぎれば、箒で掃くのは限りなく透明に近い塵しかなかった。誰も座らなかったはずの大阪球場の塵が一体どこから飛んできたのかと、ミナミの上空を見上げた。街の喧噪は、自動車の音しか聞こえない時間だった。
 朝を迎え、仕事を終え、おばちゃん二人組の住むスタンド裏のテントに向かった。黒く焼けた顔のおばちゃんが生活感のある手つきで千円札を数え、私に七枚渡してくれた。
 日当を得て球場を後にしたら、南海そばか、マクドナルドで、朝食を食べたい気持ちもあったが、我慢してまっすぐ南海電車の改札口に向かった。
 授業の開始に間に合い、点呼を終えると、机に伏し、眠りについた。夢を見る体力もなかったが、机に流れた唾液の匂いで、授業を終える前には目が覚めた。



バラックの故郷

 私の祖父母は韓国から日本に渡ってきたとき、最初に住んだのは、大阪市西淀川区の出来島だった。そこで私の父も生まれたが、その後すぐに、祖父母家族は、西へ数キロ移動し、尼崎の武庫川の東に居を構えた。
 今は、当時の地名もなくなっているので記すが、元々、同和地区でもあった上に、沖縄、奄美の人たちも多かった。私は朝鮮半島をルーツに持つ人間だが、同じ長屋には、いろいろなルーツを持つ人たちがいた。
 在日だったが、あぶらかすも食べてきたし、沖縄まんじゅうも食べてきた。要するに、日本のマイノリティの集合体の中で生きてきた自負はある。
 武庫川は、もともと大阪から見て、向こう側にあるから武庫川と名付けられたのが語源と云われている。同じく六甲山も向こう側にある山として、武庫山といわれていたのが六甲山に変化したと云われている。
 私は武庫川で生まれ育ち、成人前から千里在住である。祖父母や親父とは反対に、逆ルートで、神崎川そして淀川を越えてきた。
 けれども、祖父母と親父、私も移動したのは、昔で云う大阪・摂津国の中でのことである。
歳を重ねると郷土愛も深まる。楽しいだけでなく苦しみや悔しさも、色々な記憶が交錯されている人生すべてが大阪・摂津国のことであるという事実が、なぜか祖父母や親父が側にいてくれる気がして嬉しくなる。

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