リスク回避の冒険者たちと、リスクを回避しないレスラーたち

 統計をもとに記す訳ではないが、恐らく、今のプロスポーツで最も死亡事故の件数が多い競技はプロボクシングではないかと私は思う。
 実は脳を揺らす凶器であるグローブを用いて、主に頭部を殴り合うボクシングは、素手よりもリスクの高いスポーツであると云われている。一時、ボクシング禁止論の出た先進国も存在したが、それほどの危険性を含んだ競技である事は間違いない。
 しかし、どの時代も、若者が抱く夢は、リスクのある冒険世界が主流である。リスク伴う危険性のある事柄に挑む若者を批判するのは、人間の尊厳を否定する事かもしれない。もっともボクシングに挑む若者たちは、死亡のリスクのある事柄に挑むための免罪の証書を、日々の練習で、それこそ命を削るくらいの熱量を持って書き上げる。
 すなわち自分の身を守るための練習に熱量を費やすのである。だからこそ若者の危険な冒険を批判する資格は、我々にはないのだ。

 ボクシングに限らない。ひいてはスポーツ競技に限らない。登山から自動車運転に関わらず、人の活動性にはリスクが伴う。しかし、どんな活動性であれ、冒険するための条件は、リスク回避のための反復練習を乗り越えてきた者たちだ。

 しかし、この世の中で、一つだけリスク回避の練習はおろか、リスクを回避しない事が美徳とされる世界がある。それが現代プロレスである。

 まずプロレスラーたちはリスク回避のための後ろ受け身を繰り返す。通常、背中をマットに打ち付けて受け身を繰り返す事は、動物的な本能に反した行為であり、当然、練習の段階で、揺らされた脳は疲弊する。
 自分たちがリスク回避のためにと強制する練習で、まず、レスラーたちの脳は損傷を受けている。リスク回避の原点からして、何かを誤解しているのだ。
 自分の背中をマットに幾度も打ち付け、本番前の段階から、脳を損傷させつづけ、これがリスク回避のための練習だと強制させる。これが現代・プロレス界の真実だ。 

 相手を固定して、首筋にエルボーを打ちつけ、その攻防を繰り返すというプロレスラーたちの「痛い攻防演出」あるいは「根性演出」がある。それはリスク回避のための練習を怠った人間たちの安易な演出であるとしか私には思えない。相手を固定して、相手を気絶させるほどの打撃は与えないが、相手の頸椎ひいては脳に響く打撃は繰り返す。相手の脳は揺らしても良いが、相手との信頼関係に成り立つ攻防という摩訶不思議な世界でもある。

 プロレスは、本来、本当の痛みに頼らずとも、リアリティやスペクテーター性を演出できるジャンルだ。それが信頼性であれ、不信感であれ、どちらのベクトルに転んでも、かつてのプロレスラーたちは相手に致命的な損傷を浴びせずとも、そのリアリティを演出できていたはずだ。
いちファンが偉そうに記す事でもないが、私がプロレス団体のオーナーならば、打ち合わせをしても良い、打ち合わせがなくても良い。ただし、首筋へのエルボー合戦は無し、あるいは後ろ受け身を有する技は二回まで。そういうルールを強制したいものだ。それでファンが沸かなければ、それで良いではないか。

 おかしなことに、三沢氏の殉職以降、団体、マスコミ含めて、業界側はほとんど、この危険なプロレス界の兆候を問題提起してこなかった。相手の脳を揺らし続け、頸椎に損傷を与える首筋への打撃をスタートとするプロレスでなければ、もはやプロレスは存在できないのだ。それは、実は多くのプロレス団体もマスコミも知る暗黙の事実なのであろう。


 

Lil Rudy Rul の生きた街

 星野リゾートの新今宮の用地買収が話題となった。長らく謎の空き地の上空には何もなく、いくつかの大隅アパートの生活感に焦げた建物が、ごく近い蜃気楼として漂っていた。そんな地を開発する真意は分からないが、決して、突飛な考えでもなく、新今宮の魅力と可能性、そして地域への貢献をそれなりに考えたものではないだろうかという期待もある。
 
 18歳のときから新今宮は馴染み深い街であったが、数年前、Lil Rudy RulのPVに映った新今宮の風景に心が動いた。故郷の西成の湿地より、遥かに高い台地の病院で生まれたことを最初の口上として、新今宮の汚れきった美しい街並とともに、Lil Rudy Rulのまだ幼い青春の遍歴が唄声とともに響き、それは、薫習という言葉そのままに、私の心に響いた。

 西成を属性とするLil Rudy RulのPVには、西成以外の街がいくつか出現する。それはLil Rudy Rulの西成のメタファーとしての、別の西成でもある。あるいは、その別の西成が、Lil Rudy Rulの西成的世界を色付けしている。
 そのメタファーには、北区の長柄のさざなみ団地、あるいは夜のアメリカ村が用いられる。大阪市内を縦断してLil Rudy Rulの記憶と世界は存在している。

 それは西成を唄うLil Rudy Rulの隠喩的な風景であろうが、同時に、萩茶から千本、津守、いろいろな街の匂いを持つ西成の十色で育ったLil Rudy Rulの包括的な世界なのではないかと私は思った。

昭和プロレスメディアの終焉・最悪のプロレスラー自伝

 私は昭和プロレスファンであり、その曖昧な定義を追い求めて、再びブログに時折記すだけのファンでもある。
しかし、昭和に活躍したあるトップレスラーの自伝を読むにつけ、その内容に驚愕し失望してしまった。
 そのレスラーの自伝を発行した出版社は、昭和のプロレスをテーマにした雑誌を真面目に刊行しており、私も雑誌の読者の一人であるが、最近は、立ち読みで済ましている宝島社の昭和プロレス暴露ものと変わらない読後感を抱いてきたのも事実だ。もちろん宝島社のそれと異なり、丁寧なインタビューと写真、体裁を用いた記事に興味を引かれる。そこに昭和のプロレス愛を感じもする。しかし一度、書店で活字を追いかけて内容を把握すれば、その雑誌をレジに運ぶ気は失せてしまう。
 平成ではなく、昭和のプロレスを題材にしているとはいえ、誰と誰が仲悪かった、誰と誰が喧嘩した。そういうゴシップ的なインタビュー記事を、書棚におきたいとは思わない。しかしながら、その雑誌のインタビュー記事には、ゴシップ的ではない、当時のプロレスラーたちの心象風景がぎりぎり下世話な記憶にならず記されている事も多かったので、読者であり続けた。
 しかし、今回は、昭和のプロレスラーの回想録、自伝という体裁を保ちながら、ここまで、その回想者である昭和のプロレスラーを陥れるような編集をしたことに呆れてしまう。
 
 キラーカーンは、相撲、日本プロレス、そして新日本プロレスと三つの場所において下積みを繰り返した後に、とうとう海外にて成功していく。
 その道のりは当時なじみ深かった昭和の名優キラー・カーンだけに安易に感情移入できる。活字を一気に読む込むための追い風に溢れた一冊であった。
 
 しかし、疑問かつ残念に思う記述が二つほどあった。
 
 キラー・カーンは、他者からの告げ口だけを信用し、被害妄想を月日とともに増長させ、あげく、自身より軽く30センチは低いであろう相手に一方的な暴力を振るう事に成功する。一度殴るだけならず、何度も無抵抗の相手を殴り続けるキラー・カーンの恨み節を果たしてどれだけの人が理解できるだろうか。
 キラー・カーンが悪びれず回想する風景からは、カーンが自身の暴力性を原因としたドメスティックバイオレンスに罹患していないことを証明している。 
 それは、次の暴力への危惧でもあるが、危惧は現実となり、キラーカーンは、次に憎しみを持った相手を刃物で殺めようと包丁を購入する。そして、その動機も、他者からの告げ口だけである。
 
 真実を確かめることもなく、他者からの告げ口によって、裏切られたと被害妄想を瞬間的に膨らませる。それは我々社会人にとっても、日常茶飯事の風景でもある。
 しかし、実際に真実を確かめる事もなく、被害妄想を膨らませ、暴力を振るい、あげく、人を殺めるための刃物を購入する。真実であろうとなかろうと、社会人として生きていれば有り得ない心象風景のループをキラー・カーンは繰り返す。もちろん昭和のプロレスラーに対して社会人の道理など求めてはいない。けれども社会人以下の昭和のプロレスラーの幼稚な心象風景など誰が読みたいであろう。
 それがカーンの純粋な心性だというならば、編集者は、なぜ、カーンの純粋なそれを守ろうとしなかったのだろう。
 家族の姿が浮かんで殺意を捨てたという編集者の一銭記述に呆れてしまうばかりである。
 
 自伝を出して、自身が一方的に暴力を振るい続けた相手との対談を、自伝の編集元である雑誌は企画した。
対談後に発売されたキラーカーンの自伝の記述と自己への一方的な批判を読み、浜田は何を想うであろう。

 私はキラー・カーンを批判しているのではない。
キラー・カーンへの愛着もある。昭和の名プロレスラーの回想録が出版されることは嬉しい。その中には時として生々しい記述もあるであろう。
 また、スキャンダラスな記述も商業的には必要だ。
 
 しかし、自伝の編集者は、宝島社のプロレス暴露ものと同じように、スキャンダラスな回想を導きだすことで、カーンの価値を落としてでも本を売りたいのだろうか。

 包丁を商売道具にして生業を立てる元プロレスラーが、人を殺めるために包丁を購入した事がある。
こんな事実、私が編集者だったら、絶対にのせない。
 キラー・カーンの価値を落とさないためにも。