ミナミの喧噪

 ここ数年、ミナミの喧噪の言語の大多数は中国語や韓国語に変わったのは確かだ。また繁華街のコンビニやドラッグチェーンの店員にも中国人が増えてきたような気はする。街を歩いても、店に入っても、もはや大阪人だけの街で無くなったミナミを実感する事は多い。
 古くからのミナミの店主たちに、そういう現状を嘆く人は多い。またミナミを現実逃避の場所として求めてきた大阪人たちの中にも、最近は、どこかミナミは観光客が騒がしすぎて避けたいという気持ちが出てきているようだ。
 
 子供の頃、父親が宗右衛門町の韓国のサパークラブに、堂々と私たち家族を連れて行った事がある。チョゴリを纏ったホステスの衣装と片言の言葉に、幼心は軽い緊張を覚えつつ、「わしはまだ呑むから先に帰っといてくれ」と母親にタクシー代を渡した父をおいて、母親と姉と一緒に店を出た。
 貧しい在日長屋の中で育った私にとって、めかしたチョゴリや片言の日本語の韓国の女性たちの記憶は、非日常で、どこか性的な何かとして4歳の私には軽い衝撃であった。
日本に住んでいるけれど、日本人ではない。けれど韓国のチョゴリは滅多にみないし、韓国語は分からない。そんな私が、本当の韓国人に対して外国人と出会った混乱と違和感を抱いた後、母に頼んで、うどん店に入った。
きつねを噛んだ後、染み出た味覚に、ようやく安堵感を覚え、気持ちを落ち着けた。

 私も子供の頃からミナミを日常の負荷の癒しの地として求めてきた。大阪弁の喧噪の中で癒されてきた私であるが、街に聞こえる感情の表出は中国語が主流になった。
 しかし、ミナミという桃源郷に驚き童心に戻ったようなはしゃぎ方をする中国人や韓国人たちをみるにつけ、もはやミナミは、私たち大阪人だけの桃源郷ではなくなったような気はする。
 私たちオールドカマーこそ、ニューカマーを否定しがちだが、私たちが何世代も憧れた大阪の魅力に、ニューカマーたちが惹かれ夢中にならないわけもない。
 ミナミは大阪の誇る桃源郷であるが、アジア人にとっての憧れの場所となりつつある。彼らも、観光客であれ、ニューカマーであれ、そのはしゃぎぶりの騒々しい喧噪は、月日と回数を重ねれば大阪の静かな風土と同化するはずだと信じている。

 
 


『祖谷物語―おくのひと』

『祖谷物語―おくのひと』を観るには、いささか体力が必要であった。
その上映時間の長さもあったが、それ以上に、言葉なき映像がつなぐ壮大な映像の叙景を、拙い私の感覚の検知器が読み取るためには、多少の時間差も要する。理解しようとしても疲れ、理解しようとしなければ、意味は分からないが、感覚は分かる。そういう映画であった。
 この国に残る奇跡のような自然美の風景は、実は限られた面積の中の小さな幻のような地であったとしても、何故か、多くの外国人が、日本のこの場所を選択する。この地の美しさに惹かれた多くの外国人の代表として著名なアレックス・カー氏らしき人物像のキャストも登場する。しかし描かれる人物像は、その地にとって敵か見方か曖昧な立場として答えのない役割を担っている。
 幻想的な風景は、逆に物語の生活感とともに進行していくが、ヒロインがその地を捨て、東京に出た後の光景は映画の色を一変する。しかし、祖谷の風景とは対比した都会のどぶ川の風景を借りて映し出されたヒロインの憂いは、故郷の地とつながる琴線でもある。
 疲れたヒロインが、その地に戻った後は、幻想的な風景が、一転した抽象的な概念とともに演出されている。
ヒロインの故郷喪失者としての痛みと再生への渇望が、長い映画を見終えた余韻の中に浮かび上がった。
 


 
 
 

『凍蝶圖鑑』

 映画『凍蝶圖鑑』を観た後、「凍蝶」の意味を調べた。映画館から出た後だったので、スマホに頼るしかなかったが、"寒さのため凍てついたようになる蝶のこと。飛んでも鈍く、ほとんどは動かない。哀れさという点では「冬の蝶」より差し迫った感じがある。" と説明してある季語のサイトを見つけた。http://kigosai.sub.jp/kigo500c/234.html
けれど、映画に出てくる凍蝶たちは、記されている意味のような不自由さとは程遠い存在に感じられていたので、あまり季語サイトの意味は参考にしなかった。
 
 次に気になったのが「圖鑑」という言葉であった。わざわざ「図鑑」を「圖鑑」という旧字体に記すあたり、「凍蝶」という意味に対しての違和感とともに、制作側の商業的演出ひいては悪意を感じもした。

 けれど、映画に出てくる個性という言葉では表現できない性の煩悩の出演者たちの姿を見るにつけ、やはり、この映画のタイトルは『凍蝶圖鑑』が相応しかったのではないかと後になって思った。

 淀川、新世界、おそらく西区辺り、私にとって馴染みの深い街の日時計に拘らない通日ひょっとすれば闇の世界を背景に、出演者たちは凍蝶どころか、ひとときに躍動する蝶のように遠慮なく自身の変態性を持って、鑑賞者を捕らえる。

 「凍蝶」という名を付けられた出演者たちは、確信犯的に、自分たちを「凍蝶」と呼号する。
私たちが思う以上に性的マイノリティたちの逞しさは、『凍蝶圖鑑』というタイトルの映像を余裕を持ち容認する事で証明されたのだ。