『海炭市叙景』

 『海炭市叙景』は、私がこの五年の間に観た映画の中で、もっとも、その余韻の残像が、大脳基底核に刻印された作品であった。闘うか、逃げるかを司る大脳基底核の判断のための過去の映像に、感動したかどうかとして刻印されたのは、その実像としてのフィルムではなく、心に残った余韻の残像でもあった。

 作品は、私小説作家である佐藤泰志の短編小説集を絶妙にオムニバス化した映像集でもある。
様々な人たちの日常の中の刹那の快楽と絶望が、微妙に他の人間模様に微妙に交差する。
 微妙な交差は、どこか遠慮気味だ。
 人は皆、どこかで人の人生と接する境界の中を生きざるを得ない。しかし、人は人と繋がりたい人生の境界を求めて、孤独の癒しを求めるが、人と繋がる境界は、ごく僅かでしかない。その、ごく僅かの境界の接点と接点を緩やかに一つ一つのエピソードは流れていく。

 淡々とした市民の日常の風景を、実に多くの名優たちが味わい深く演じている。
しかし、心に残ったのは、場末のスナックで一見客相手に商売語りの浮き世の風景を語る少々、不細工な女。
 そして、蒸発した後、腹を膨らまして戻ってきた飼い猫を抱きかかえながら、「産め、産め、ぜんぶ、面倒みてやる」と無責任に、そして、静かな覚悟を持って呟く老婆の姿。
素人俳優たちの戯言は、時として、虚構のからくりの映像をリアリティを持って、際立たせる。
 演技が下手な素人たちの戯言が、名優たちのそれよりも心に響いた。不思議な映画であった。


土着建築

 子供の頃、鍵っ子ではなかった。というのは、鍵など持たずとも、長屋の引き戸に手を添えば、自分の家に入る事が出来たからだ。もともと、私たちの長屋には鍵をかける意識が希薄であった。
 ある時、引き戸を左に引くと、上がりかまちの向こうの台所に、近所のおばさんの姿が見えた。おばさんが「○○ちゃん、卵借りるで」と冷蔵庫を閉めながら、私に告げて出て行った。
 
 私の長屋はトタンの外壁だったので、当時の安い建築資材であっただろうが、幸いだったのは、トタンが焦げて、焦げたトタンを照準にした私の長屋は、見事にボロ屋敷と化していた事だ。
 伝統住宅ではないものの、私は時間に応じて、色の変わった自分の家に対して、土着建築(バナキュラー建築)の類いの端くれとしての愛着を感じる。

 色あせない事を題目として、世界中で、安価な条件のもと、その土地の風土とは関係のないグローバルな建築の街作りが主流になっているが、私は子供の頃、トタンを作る職人の顔は知っていたので、トタンという安価な建材に対しても、土着的な風土は感じることは出来た。

 トタンの原材料さえ知らないが、トタンを作る人のことは知っている。広義で云えば、それも土着建築なのだろうか。

 大阪も郊外を中心に、同じような建売住宅の集合体が、一つの街となり、そこに集う人たちも世代を越えた月日を数えるだろう。
 そのとき、子供の頃から住む家が、色あせ、痛むことがあれば、そこで育った人たちの記憶は幸せなのではないだろうか。

 土着建築であろうとも、なかろうとも、人の記憶の重なりを、家が何らかの方法で醸し出すならば。



 

 
 
 

『ヤクザと憲法』

 かつてハリウッド映画「ブラックレイン」の舞台ともなったのが十三・栄町商店街であった。せっかく大阪の都心ミナミの非日常的な色彩都市を背景に多くのシーンを撮り終えているのに、監督であるリドリー・スコットが、アンディ・ガルシアが死に向かうネオンロードの舞台として選んだのは十三・栄町商店街のミナミと比べやや薄く少ない数のネオンで照らされた歓楽街の光景であった。
 大阪のヤクザを題材として、「ブラックレイン」は描かれたが、そのおそらく三十年近く後になり、舞台となった栄町商店街にある小さな映画館にて、ヤクザを題材としたドキュメント映画が上映された。
 その劇場には足繁く通っている私であるが、あそこまで劇場のロビーに人が溢れている光景は、その映画上映以外は観た事はない。一度、予約無しで出向いたものの、あまりの混雑に日を改めた程である。
上映時間より早めに出直した日は何とか椅子に座れるほどの列であったが、小劇場の小さな空間の両隣と背後は立ち見客に囲まれるほどであった。
 スクリーンに登場するヤクザたちは、西成の山王を拠点とする東組及び、その枝の組の人物たちである。実は、私の父は東組と古くに短期間のある縁があったが、そんな記憶とは関係なく、仕事で東組、及び滝本組の事務所前を通る事が多い。仕事や私生活でつきあうことは無いとはいえ、私にとってヤクザとは日常であり、少なくとも、日常と思っている光景の中で生きる人に対して、ヤクザが危害を加えることは無い。
 下積みを好む若者が少なくなった現在、わざわざヤクザ事務所に押し掛けるような人間は、どこか朴訥で、純な輩である。私が生まれ育った時から今まで感じている印象を、映画はある人物を追いかけることで具現化してくれた。
 もちろん暴力団といわれるヤクザを肯定する気など毛頭ない。
 それでも今の世の街には、ヤクザにも劣る暴力生が溢れている。半グレ集団、あるいは好き勝手に暴力的な言葉を吐けるソーシャルネットワーク。

 映画で描かれたヤクザたちの描写に演出性がかかっていたとしても、私には、上記した半グレや、ソーシャルネットワークでの素人の暴力言葉遣いよりも、どこか牧歌的な顔立ちに見えたことは確かだ。

 映画「ブラックレイン」にて、アンディ・ガルシアが死に向かう暴力の終点として描かれた十三・栄町商店街であるが、その遥か後、暴力とは何かを考える映画を上映することによって、鑑賞者は、暴力性の定義を考えざるを得なかったであろう。